寿々川合資会社の履歴

平成17年12月20日

寿々川合資会社に関心を寄せられる皆様へ

旧寿々川合資会社 無限責任社員
大竹幸一郎

 寿々川合資会社の70年の歴史を閉じるにあたり、履歴を記して、皆様に経過をお知らせいたします。文中では敬称を略させて頂きました。なお裁判は憲法第82条により公開と定められていますので、証拠として提出された書類は公開を前提としたものであります。


本題に入る前に、昭和29年の大竹金次郎翁によせる本家当主の追慕の辞をご覧下さい。文中に「前橋市芳町に酒蔵」とあるのは、寿々川合資会社のことで、七年は八年の誤りです。祖父大竹金次郎の足跡を知るとき、寿々川合資会社のこの土地、この建物が、祖父の心血の結晶であることが分かります。この思いを大切にしながら、これまで守り続けて来たものであることをご理解いただければ幸いです。




 昭和8年、秋間の本家の祖父大竹金次郎が上毛貯蓄銀行から曽田軍平氏旧有の芳町28番地の3と47番地の土地536坪、家屋、レンガ蔵などを1万3600円で購入しました。売買契約は昭和8年9月5日、契約と同時に1割の手付金1360円を支払い、10月3日に残金1万2240円を支払っています。祖父は秋間農業会からの借入金によって購入したと伝えられています。煉瓦造りの煙突、2階建てのフナ場、井戸小屋、便所には別の所有権が残っていて、別途222円で購入しています。


  


 最初は個人商店として営業を開始し、翌9年5月19日に大竹金次郎個人名で清酒製造免許を申請し、7月14日に免許されました。続いて会社を設立して、会社が製造するという形態をとることにしましたが、酒の免許は人と場所に下付されるもので、個人の製造免許をそのまま会社とすることができません。そこで先ず会社を設立して、会社が改めて免許を申請するという形をとることになりました。

 昭和10年11月28日、酒類の売買等を目的として合資会社大竹商店を設立。無限責任社員は大竹金次郎、出資金8000円、同じく大竹宗吾、出資金2000円とし、有限責任社員は、大竹テツ、大竹柳吉、大竹粂五郎、大竹保雄、大竹真澄の5名で、それぞれの出資金は2000円で、資本金は2万円でした。


    


 翌昭和11年6月28日、定款を変更して目的を清酒製造とし、社名を合資会社大竹酒造店と改め、事業年度を10月から9月までとしました。11年9月3日、会社として清酒製造免許を申請し、10月2日に免許されました。その時の申請書の趣意書の第2項に次のようにあります。

 「現下経済情勢並びに子孫等の思想状況を観察するに今後は従来の経営方針にては一歩たりとも進むを得ず。寧々退嬰の形勢を辿りつつあり。此際営業方針を改革して法人組織に改め、一家一族を網羅して協力一致して酒造業を堅実に経営せんと志すにあり」


  


 昭和15年には9月5日に合成清酒製造が、12月27日には焼酎製造が免許されました。残念ながら申請書は残っていません。

 昭和18年は動きの大きな年でした。11月13日、有限責任社員の大竹粂五郎、大竹保雄、大竹真澄の3名は、それぞれの出資を大竹宗吾に譲渡して退社し、11月15日には、祖父が出資を大竹宗吾に贈与して退社しました。大まかに言って、土地代金の1万3600円と別途支払った222円の合計に近い金額です。問題は出資金額ではなく、現物出資されていた不動産の名義を大竹宗吾として登記したことで、後に大竹テツが不動産の代金は祖父に現金で支払って買ったものだと錯誤する原因になりました。贈与証書そのものが権利書として残っているばかりか、登記簿の甲区には移転の原因として贈与と明記されていて、祖父から贈与されたものであることは誰の目にも明らかです。



 昭和26年3月30日、大竹柳吉は出資を大竹テツに譲渡して退社しました。大竹宗吾、無限1万6000円、大竹テツ、有限4000円となりました。定款には会社の存続の期間を20年としてあり、昭和30年には解散しなければならないはずでした。このことに気づいたのは昭和34になってからで、慌てて定款を改正し、昭和34年10月22日に登記申請しました。前橋地方裁判所民事部から陳述書の提出を求められ、12月8日、これを提出し、翌昭和35年5月9日に商法第147条、同法第67条、非訴事件手続法第186条第1項第1号に該当するものとして、非訴事件手続法第206条、同法第207条により過料2000円に処せられました。

 昭和36年6月30日、再評価積立金の内の43万6000円を資本に組み入れ、51万1000円を増資して資本金100万円とし、大竹宗吾、無限50万円、大竹テツ、有限30万円に変更し、私大竹幸一郎が無限責任社員として、出資金20万円で入社しました。実際の就業は勤務先の合名会社森田商店の都合で、9月30日にずれ込みました。


  


 入社して間もない10月初めのこと、私は父宗吾に奥へ呼ばれました。そこで父は祖父からの贈与証書を示して、お前には言っておかなくてはならないが、この土地も建物もお祖父さんから贈与されたものであるから、末代まで子々孫々に守り伝えるようにと言われました。

 昭和48年9月30日、清酒製造業を廃業し、銘柄から商号を寿々川合資会社とし、翌月2日に定款の変更を登記しました。酒造りをやめることは、在庫の処分や資金繰りなど、経営上の大問題でありますが、何故か私独りが対策に奔走しました。昭和48年、株式会社アートコーヒーの特約店となり、続いて昭和49年には日本緑茶振興センターと特約を結び、コーヒー、紅茶、ハーブティーの販売を開始しました。

 昭和50年4月28日、父宗吾が死去し、遺産分割協議の結果、幸一郎が30万円を相続して無限50万円に、母テツが20万円を相続して有限50万円になりました。勝二郎と弘幸は朝日町に土地を生前に贈与されているので、出資の相続はありません。遺産分割協議書には、勝二郎が贈与された土地について朝日町の287平方メートルのみが記載されていますが、それ以前に天川町にも土地を贈与されていますから、弘幸の826平方メートルと比べて、決して少ないわけではありません。ちなみに幸一郎は出資分のみの相続で、事実上寿々川合資会社の負債をも相続しました。

 合資会社も合名会社も社員が1名になった場合は、商法の規定により解散し、清算しなければなりません。合資会社は無限責任社員が複数であっても、有限責任社員全員が退社した場合には解散しなければなりません。母テツはこのことを慮って、昭和62年8月7日に公証人役場で遺言書を作成しました。自己の出資金50万円の内の2万円を幸一郎の妻道子に遺贈し、残り全てを幸一郎に相続させることによって寿々川合資会社の社員を複数にし、会社の存続を図るというものです。他の手本となるようなものでした。



  

  


 平成4年8月15日夜、母テツは大腿骨を骨折し、富沢病院に入院しました。富沢病院では常時付き添いを必要とするため、伝手を頼って善衆会病院に転院し、そこで手術を受けました。手術当日、弘幸以外の子供たちが集まっていましたが、手術後は帰っていきました。手術当夜、付き添って泊まったのは私です。

 入院中に明らかになったことに、母名義の預金通帳や印鑑が井上紀子の手に渡っていたということがあります。母が持っていると幸一郎に取られるからと言って、その数年前に紀子が持っていったとのことでした。しかし実際に母の預金を自由に使ったのは、井上紀子自身であります。

 その年も押し迫って退院し、リハビリのために直ちに沢渡温泉病院に入院し、翌平成5年3月14日に退院しました。亡くなったのは、この年も押し迫った12月9日のことです。

 平成6年3月17日、前橋家庭裁判所において遺言書の検認が行われました。昭和62年の遺言書を平成元年11月2日に書き換えて、大竹道子への遺贈の項を削除し、大竹幸一郎、井上紀子、小野繁子、江原節子の4名の分割相続とし、さらに平成5年5月31日、幸一郎を相続人から除き、井上紀子、小野繁子、江原節子の3名の分割相続としました。一見したところ片手落ちのようですが、寿々川合資会社の有限責任社員は、これによって3名になったわけですから、会社の存続という最初の目的それ自体はは損なわれていません。



 ところが平成6年4月27日、井上紀子、小野繁子、江原節子の3名は、寿々川合資会社を退社するという通知を内容証明郵便で送ってきました。しかしながら年度の終わる6ヶ月前に予告をなすことを要すという商法の規定により、この退社通告は無効でした。この年の8月3日に大竹幸一郎は、遺留分減殺を請求しました。

 平成7年3月23日には、大竹勝二郎と大竹弘幸が遺留分減殺を請求して社員として参加しました。この際の通知には、「今後は、井上紀子ら3名に加え、大竹勝二郎殿及び大竹弘幸殿も寿々川合資会社の社員になりましたので、よろしくお取りはからい戴きますようお願いします」とあり、有限責任社員は5名となったわけです。このまま退社することがなければ、寿々川合資会社は母テツの遺志どおり存続し得たはずでした。

 平成8年9月30日、酒類販売業を廃業しました。

 平成9年5月9日、井上紀子、小野繁子、江原節子の3名が、大竹幸一郎、大竹勝二郎、大竹弘幸の3名を相手方として遺産に関する紛争調整の調停を申し立てました。井上らはこの年の4月末ごろ、大竹宗吾の23回忌と称して、幸一郎所有の大竹家の墓地の植木を抜き去るという暴挙を為しています。実家のものは自分たちの自由にできるという自分勝手な考えからの行為であることは、後の裁判でも見られます。調停は長期間にわたりましたが、何の得るところも無く、申立人側で取り下げました。


   


 平成12年5月25日、井上紀子、小野繁子、大竹勝二郎、大竹弘幸、江原節子の5名は、寿々川合資会社の出資について持分の払い戻しを請求して前橋地方裁判所に提訴しました。会社の純資産を2億3473万7467円と推定し、1億758万7691円を支払え、支払わない場合は5パーセントの利息を払えというものであります。

 有限責任社員が全員退社して持分の払い戻しを要求するということは、会社を解散して会社の資産を金に変えて分配しろということであります。言い換えると、実家を無くせと言っていることに他なりません。。


  

  


 この裁判のさ中の平成13年9月30日、有限責任社員全員が退社したことを受けて、商法の規定により寿々川合資会社を解散しました。

裁判が長期にわたる様相を呈してきたため、原告側から和解の提案がありました。平成14年5月、原告側弁護士上野猛と被告側弁護士の間で和解の内容について書簡の往復があり、その中で原告側から「井上紀子らは、大竹宗吾、テツが、大竹金治郎に屋敷の代金を支払っており、購入したものであると考えておりますので、この条項につきましては、削除お願い致します」と通告してきました。贈与証書が存在し、登記簿の登記の原因にも「贈与」と明記されているにもかかわらず、このような誤った考えを公言して憚らないのは何故でしょうか。私は祖父への敬慕の気持ちを込めて、この条項を入れない限り和解には応じられないと主張し、原告側は折れて、和解調書に記載させました。



 翌平成14年7月9日、持分支払い請求事件は、和解しました。和解条項第1項で、持分を(1)被告大竹幸一郎24分の13、(2)原告井上紀子、小野繁子、江原節子各24分の3、(3)原告大竹勝二郎、大竹弘幸各24分の1と確定し、第3項で「すみやかに清算手続をすすめ、第1項の持分割合に従って、原告らに残余財産を分配するものとする」と合意しました。調停や払戻し請求事件以前と全く同じ状況を裁判で確認したという結果に終わったわけですが、会社の不動産は祖父金次郎からの贈与であることを公の証書に記録することができました。原告5人の目的は、無用な裁判で時間や労力ばかりか、私に大金を浪費させようということが目的だったのでしょうか。


      


 平成16年7月21日、井上紀子、小野繁子、大竹勝二郎、大竹弘幸、江原節子の5名が前橋地方裁判所に、清算人解任及び清算人選任申請を提訴しました。清算人大竹幸一郎を解任し、裁判所による新たな清算人の選任を求めるというものです。色々な理由が述べられていますが、一日も早く清算して残余財産を分配せよというのが解任理由の根底にあります。それを遅らせるのは懈怠であり、商法違反であり、亡母の遺志を無視するものであるというのです。

 清算人の解任ということは、要するに私を追い出そうということに他なりません。実家の不動産を売却しろという裁判の次は、幸一郎よ、出ていけという裁判です。いずれにしても土地が売れれば、家を去らなければならないのですが、それさえも待てないというのです。


      


 母テツの遺志は出資者を複数にすることで会社の存続を願ったものであって、会社の解散と不動産の売却による分割ではありません。寿々川合資会社は、井上紀子、小野繁子、大竹勝二郎、大竹弘幸、江原節子の有限責任社員全員が退社したために、商法第162条の規定によって解散することになったもので、その点この5人は、親の遺志を踏みにじったわけです。

 解任申請の裁判で弘幸は、意見書や上申書などの中で「早期に精算し残余財産を分配することが亡母の遺志に沿うことであると考えている」と述べ、続けて「亡母の遺志に答えるために早期に精算されなければならない」と断定しています。遺言の内容についても、「被遺言者以外には亡母の権利、財産は一切遣らない、使用させないという強い気持ちがある」と述べています。仮にその通りだとすると、弘幸自身も被遺言者以外の一人ですから、遺産はもらうことも使うこともできないということになります。遺言書には、出資者を複数にすること以外は述べられていません。何故か私の兄弟姉妹たちは、このように自己中心の考えを押し通し、実家である我が家に干渉したり指図したりして自由にし、思うようにいかないと暴力的な言動に及びます。親の遺言を自分勝手に読み替えるのも、実家の資産を売り払ってゼロにするのも、私に出ていけと言うのも、墓の植木を切り倒すのも、同じ一連の行為です。


  


 三河町には昭和45年に土地区画整理事業の区域決定が為されていて、建築制限があることと、土地の位置や形状が変更されるため、土地取引はほとんどありません。そのような状況の中で土地を売ると、予想外の安値になることが見込まれます。持分払戻し請求事件では、2億3千万円と想定して請求してきましたが、536坪の土地に対して弘幸の依頼した不動産業者は8800万円という査定をしました。しかし現実は、この査定をさらに下回ります。

 区画整理事業の区域決定が為されると、その地域内の建築には制限が加えられ、地下室を有さない2階建て以下の木造住宅でないと建築許可が下りません。その結果、宅地分譲やマンション建設を目的とする土地の売買は、地域内では現実的でありません。そういう問題に対して弘幸は、「事業計画公示以前であるならば、当然土地の売買、家屋改修の制限は無い」と問題をすり替え、「建築確認を取れば家屋等は建築できる。(区画整理二課の説明)。このことから相手方の主張には根拠がない。」と断定しています。ところが実際には、区画整理二課では課長以下このような説明をすることはあり得ないと述べています。根拠の無い主張を繰り返しているのは弘幸当人であり、虚偽のでっちあげ話しで、あたかも私が虚偽の陳述を為しているかのごとく主張しています。

 平成17年2月4日、アトラスホームと選任媒介契約を結び、一応の目安として8800万円で不動産流通機構に登録しました。新聞折り込み広告は、2月26日、3月4日、3月26日、4月1日の4回掲載しました。しかしながら区画整理の地域決定がなされているため、照会に留まり、売買交渉には至りませんでした。

 その一方で媒介契約を結ぶ以前の1月28日、現況のままで買い取ってもよいという買い手がありました。ただ提示された金額が5000万円で、希望より安すぎます。しかしながらレンガ蔵やレンガ造りの煙突を壊して廃棄し、整地して道路をつけて分譲するには概ね3000万円が見込まれますから、5500万円ならと交渉し、結局この価格で5月18日に売買が成立しました。


    


 引き渡しは元来は契約時のところ、今年8月末日まで猶予されていましたが、住まいの建築に相当の期間を要するため、買い主のご好意にすがって、今日まで住まわせていただきました。私たちは、長年住み慣れたこの地を離れ、しばらく仮住まいをした後に、新しい土地での生活を始めます。この年になると生活環境を変えることは大きな負担ですが、皆様の心を支えに頑張っていこうと思います。今後とも宜しくご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。

 なお新しい住所や電話番号は、しばらく公開しない予定です。私へのご連絡は、にeメールくださるようお願い申し上げます。


旧寿々川合資会社のレンガ蔵に関して有志による保存運動が活発に行われ、前橋市も前向きに取り組んむようになりました。その間の事情を、運動の趣意書、上毛新聞に取り上げられた記事の中の重要なものについてここに掲載します。

平成18年2月2日の要望書のPDFはここをクリック

平成18年6月2日の上毛新聞の記事はここをクリック

平成18年6月15日の上毛新聞の記事はここをクリック

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